網戸の歴史
網戸。それは人にとって害のある蝿や蚊を家の中に入れないためのものであり、今日では住宅を構成する窓の一部として確固たる存在を誇示しています。それではこの網戸はいったいどのような歴史的変遷をたどって今日まできているのでしょうか。興味のあるところですが、網戸に関する歴史的資料は調べていってもほとんど存在しないのが現実です。すなわち歴史年表的なものを作りあげることは不可能に近いことが分かります。
ただここで、網戸を語る上で忘れてならないのが、網戸と同じ機能をもった「蚊帳」というものの存在です。蚊帳は網戸の原型といっていいくらい我々の身近なものとして活躍してきました。一旦は姿を消したかに見えましたが、最近になってまたその機能性が見直されて秘かなブームになりつつあるようです。 蚊帳の起源は意外と古く、一番古い記録としては応神天皇が播磨の国を巡幸の際に「賀野の里」(=かやのさと)というところで御殿を作って蚊帳を張ったというのが「播磨国風土記」に記されております。またほぼ同時期の「日本書記」によると中国の呉から蚊屋衣縫という蚊帳作りの女性技術者が渡来したとありますから、奈良時代より以前に中国より伝来してきたのがはじまりと考えられています。
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江戸時代 | |||
江戸時代に入ると西川をはじめ近江八幡では17軒の蚊帳屋が、西暦2000年まで続いた「日本蚊帳商工組合」の前身となる講を形成しました。そして江戸時代も後半になってからやっと蚊帳が一般家庭に普及するようになりました。 この間、蚊帳の素材は麻によるものがほとんどでしたが、昭和35年になってようやく合成繊維での蚊帳が登場することになります。この頃から昭和40年頃まで蚊帳の生産は250万張りを数えるほどのピークをむかえました。しかし、この絶頂期も一瞬で、同じこの頃より急速に下降の一途をたどるのでした。 話を網戸に戻しますと、これに関しては前述の蚊帳ほどの古い文献や記録などのたぐいがほとんどありません。そこで推測を交えることとします。日本の住宅様式の変遷を考えるとある程度の想像ができます。まず奈良平安時代の古い絵巻物などを見るとわかるように建物には縁側を挟んで仕切るものがなにもなく開放的でした。すなわち部屋と部屋の仕切りも帳(とばり)程度のもので網戸が存在するような建物様式ではなかったのです。ですからこの時代から網戸が生まれるまでの間は蚊帳が活躍したのです。 |
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網戸の誕生とはいつか? | |||
では網戸が生まれるきっかけはなんだったのか?ここがはっきりとしないところになるわけですが、江戸時代の一茶の句に「留守中も 釣り放したる 紙帳かな」「月さすや 紙の蚊帳でも おれが家」というのがあります。
「紙帳」とは、和紙をもみほぐして、それを張り合わせて作る紙製の蚊帳で壁面に30センチ角位の窓があって、そこには蚊帳の切れ端が縫い付けてあったそうです。つまりこの時代には蚊帳の切れ端を窓に張るといった網戸としての使われ方の原型がすでにあったことになります。
もっともここでの窓は現在の引き違い窓のように可動式といったものでは当然ありません。これも推測になりますが、現在の網戸のようなものが登場する条件としては当然のことながら窓の形態が引き違い式でなければなりません。 では現在の窓のように外気を遮断するような使われ方をしたのはいつ頃かということになります。形態としては戸板式の雨戸が外気と縁側を遮断していたものが引き違いの窓としても使われ出したのが出発点ですが、現在のような使われ方をするには長い年月を必要としました。 結論的には窓硝子が劇的変化をもたらす役割を果たすようになったことです。旭硝子によって国産の硝子が始めて生産されたのは明治42年のことで、大正に入ってからラバース式製法など大量生産が可能になってきてから窓硝子を使った窓は急速に普及していきます。ではこの頃から網戸が出てきたのかというとそうでもありません。まだこの時点では窓のメーカーや網戸のメーカーというものの存在すらありませんでした。この時分、窓を作っていたのは大工さんから分業していった建具屋さんだったのです。おそらく気の利いた建具屋さんは蚊帳の素材や金網を使って窓ガラスの代わりに窓にはめ込む網戸を作っていたと考えられていますが、ごくごく一部のことだったでしょう。あるいは窓の全面を覆い隠すように蚊帳の素材を張っていたようです。網戸に関する情報がないのはこうしたところからきています。このような状態は日本が戦後から立ち直る昭和30年代中頃まで続いたのです。 |